観察やインタビュー,あるいは日記や議事録など質的調査で得られた質的データは,貴重なデータの集まりです。
社会福祉士の国家試験では,このデータの分析方法として,KJ法とグラウンデッドセオリーアプローチ(GTA)が出題されます。
どちらもよく似た手法で,生まれたのも1960年代後半というところも似ています。
違うのは,KJ法は日本で生まれ,GTAはアメリカで生まれたことです。
そのため,GTAの方が難しい用語が用いられます。
しかし,どちらの手法も似ていることは頭に入れておきましょう。
それでは,今日の問題です。
第29回・問題90 Q市の社会福祉協議会では,住民座談会で地域の福祉ニーズを把握するため,参加者にブレインストーミング形式で話合いを行ってもらい,そこで得られた意見についてKJ法を用いて整理することにした。
次のうち,その際の参加者によるKJ法の進め方として,最も適切なものを1つ選びなさい。
1 KJ法に必要な器具として,話合いにおける発言を一字一句正確に記録するためのビデオカメラとICレコーダーを購入した。
2 意見を付箋紙に記録する際,ソーシャルワークの専門用語を用いて表現した。
3 意見が記録された付箋紙をグループ編成する際,Q市社協の重点目標に即して大まかにグループ分けした上で,徐々に小分けにしていった。
4 付箋紙をグループ編成する際,1枚だけで残るものがないように,まんべんなく全ての付箋紙をいずれかのグループに含めた。
5 付箋紙のグループ編成を何段階か行った後,話合いの内容に基づく複数のユニットができたので,それらを模造紙上に再配置していった。
KJ法を用いたことがある人なら,とても簡単な問題です。
そうでない人にとっては,少し難しいかもしれません。
しかし,面白い出題だと思います。共通科目の「地域福祉の理論と方法」で出題されても良いような問題ですね。
それでは解説です。
1 KJ法に必要な器具として,話合いにおける発言を一字一句正確に記録するためのビデオカメラとICレコーダーを購入した。
議会などの議事録は,一字一句正確に記録する必要があります。そのために,速記者が配置されます。ただし今も速記者が配置されているかは知りません。
KJ法の目的は,得られたデータから新しいアイディアなどを見つけ出すことにあります。
一字一句を正確に記録する必要はありません。
2 意見を付箋紙に記録する際,ソーシャルワークの専門用語を用いて表現した。
ソーシャルワークの専門用語を用いて表現してもまったく不適切だということはありません。
しかしそれだと,もともと話していたことを正確に表現しないこともあります。
得られたデータを適切に表現することが大切です。
3 意見が記録された付箋紙をグループ編成する際,Q市社協の重点目標に即して大まかにグループ分けした上で,徐々に小分けにしていった。
KJ法もGTAも分析軸を持たないで,データを集約していくのが特徴です。
先に分析軸があると,そこから抜け出せずに新しい発想ができなくなってしまうからでしょう。
GTAでは,分析軸を持たずにまとめられたものをコード化することを「オープンコーディング」と呼びます。
「さあ,ここから始まるよ」という真っ白な気持ちでコード化することからオープンコーディングと名付けられています。
GTAでは,このあとに,軸足コーディングと呼ばれるサブカテゴリーをまとめてコード化する作業を行います。さらにデータ収集とコード化を繰り返していきます。そして,どう頑張ってもこれ以上は何も出てこない状態までになります。この状態を「理論的飽和」と呼びます。
GTAは,オープンコーディング,軸足コーティング,理論的飽和という用語を覚えておけばばっちりです。
4 付箋紙をグループ編成する際,1枚だけで残るものがないように,まんべんなく全ての付箋紙をいずれかのグループに含めた。
KJ法は,グループ化できないものがあった場合は,その一枚で一つの島をつくります。
GTAは,グループ化できないものがあった場合は,ムリに使わなくても良いとされます。
ここが日本生まれのKJ法と北米生まれのGTAの違いです。
5 付箋紙のグループ編成を何段階か行った後,話合いの内容に基づく複数のユニットができたので,それらを模造紙上に再配置していった。
これが正解です。
個別のデータでは気づかなかったものを結びつけることで,新しいアイディアや発想が生まれます。
例えば,買い物で困っているという意見と余剰な幼稚園バスという情報を結び付けて,日中そのバスを使って,買い物の配達サービスを行うといった発想です。
実際には,様々な法規制があるので簡単には進まないかもしれませんが,そこでいろいろ活動を行うことで新しい何かが生まれてくる可能性があります。
ブレインストーミングの原則は,多くの意見を出し合い,ほかの人の意見は批判しないという姿勢です。
そうやって出てきた意見は,大切に扱いたいものです。