明治以降の主な公的扶助制度は,
・恤救規則
・救護法
・旧生活保護法
・現生活保護法
というように発展していきます。
障害者や高齢者と異なり,極めてシンプルであり,覚えるポイントは少ないのが特徴です。
主に覚えるポイントは
・扶助の対象
・扶助の方法
恤救規則では
・扶助の対象 → 無告の窮民(高齢者は70歳以上,児童は13歳以下)
・扶助の方法 → 米代の金銭給付
といった感じです。
それでは,今日の問題です。
第28回・問題63 現在の生活保護法成立前の公的扶助制度に関する記述のうち,正しいものを1つ選びなさい。
1 恤救規則(1874年(明治7年))は,高齢者については65歳以上の就労できない者を救済の対象とした。
2 救護法(1929年(昭和4年))は,救護を目的とする施設への収容を原則とした。
3 救護法(1929年(昭和4年))における扶助の種類は,生活扶助,生業扶助,助産の3種類であった。
4 旧生活保護法(1946年(昭和21年))は,勤労を怠る者は保護の対象としなかった。
5 旧生活保護法(1946年(昭和21年))は,不服申立ての制度を規定していた。
勉強不足の人が正解するのは困難な問題です。
どのように発展してきたのかが,一目瞭然となる実に良い問題です。
それでは,解説しながら,発展過程を整理していきます。
1 恤救規則(1874年(明治7年))は,高齢者については65歳以上の就労できない者を救済の対象とした。
恤救規則が救済の対象とした高齢者は,70歳以上です。
救護法で,65歳以上に対象が広がっています。
児童は,どちらも13歳以下です。
2 救護法(1929年(昭和4年))は,救護を目的とする施設への収容を原則とした。
恤救規則では,救済の対象は極めて限定され,施設も規定されませんでした。
そのため,慈善事業(現在の社会福祉事業などにあたるもの)の多くは,民間の篤志家が担いました。
絶対に覚えておきたいものとしては,
・岡山孤児院
・滝乃川学園
・家庭学校
・双葉幼稚園
があります。
救護法では,救護施設として,養老院,孤児院,病院等が規定されました。
しかし,原則はあくまで居宅救護です。
なぜなら,貧困の多くは,金銭を給付されることで,福祉ニーズが充足するからです。
施設を必要とするのは,特別なニーズがある場合です。
「施設収容を原則とした」と出題しているのは,イギリスの救貧制度と混同させるためでしょう。勉強不足の人は「聞いたことがある」と思って引っ掛けられます。過去に何度か使われている手法です。
救護施設の一つとして創設された養老院は,旧生活保護法で養老施設となり,老人福祉法で養護老人ホームとなり,現在に至ります。
老人福祉法が出題されるとき,養護老人ホームを絡めることが多い傾向があります。生活に困窮した人の措置施設として重要だからでしょう。
3 救護法(1929年(昭和4年))における扶助の種類は,生活扶助,生業扶助,助産の3種類であった。
大切なものが一つ抜けています。
医療扶助です。
扶助の種類を覚えるときの基本は,救護法の4つの扶助を確実に覚えるところから始まります。
旧生活保護法では,それに「葬祭扶助」が加わる。
現生活保護法では,それに加えて「教育扶助」「住宅扶助」が加わる。
現在は,さらに介護扶助を加えて8種類となります。
4 旧生活保護法(1946年(昭和21年))は,勤労を怠る者は保護の対象としなかった。
これが正解です。
旧生活保護法では,救護法に引き続き,勤労を怠る者を救済対象としないという欠格条項が設けられていました。
旧生活保護法は,GHQによるSCAPIN775を応える形で成立し,無差別平等を原則としながら,欠格条項を設けています。
SCAPIN775は,保護は国家責任であることを提示していますが,同指令書で国家責任を含めた理由は,それ以前の日本の姿勢は,保護は民間に任せたいといった及び腰であったものを,「いい加減にしなさい」と灸をすえるものであったからです。これはあまり知られていない事実でしょう。
現生活保護法は,無差別平等は,生活保護の原理です。困窮に至った経緯は問わず,困窮の事実をもって,保護が行われます。
旧法と新法でこれだけ変わったのは,その間に成立した日本国憲法によるものです。
現生活保護法は,日本国憲法第25条で規定されている生存権を保障するために改めて作られました。
5 旧生活保護法(1946年(昭和21年))は,不服申立ての制度を規定していた。
不服申立ての制度を規定したのは,現生活保護法です。
それ以前は,職権保護によって行われていました。
保護を受けることを国民の権利とみなしたのは,現生活保護法です。この時に,申請保護が認められることとなりました。