まずは,発展過程から学んでいきたいと思います。
<身体障害者>
日本の一般的な障害者対策は,救貧対策として,恤救規則や救護法でわずかに対象とされていたにすぎません。
それに比べると,戦争で傷ついた軍人(傷痍軍人)に対しては,明治期に廃兵院法ができてリハビリテーションを受けることができました。このように傷痍軍人は一般の障害者よりも優遇されていました。廃兵院はその後傷兵院に変わり,戦後は国立療養所になりました。
第二次世界大戦後,GHQは徹底して日本を非軍事化していきます。
そのため,問題となったのは傷痍軍人に対する優遇対策です。傷痍軍人を優遇するのは,戦前の軍事体制を認めることにもつながりかねません。
身体障害者福祉法が成立したのは,1949(昭和24)年のことです。
旧・生活保護法が1946(昭和21)年,児童福祉法が1947(昭和22)年に成立しているのに,身体障害者福祉法の成立は遅いと思ったことはないでしょうか。
同法の成立に時間がかかったのは,GHQとのかかわりの中で,傷痍軍人対策としての法ではなく,すべての身体障害者を対象とする必要があったからです。
法制定には時間がかかりましたが,傷痍軍人対策は何もしていなかったわけではなく,1947(昭和22)年には,身体障害者授産施設がつくられています。
そして,ようやく身体障害者福祉法が成立します。
同法による身体障害者の定義は,
身体上の障害のため職業能力が損傷されている18歳以上の者であって,都道府県知事から身体障害者手帳の交付を受けた者
とされました。
「職業能力が損傷」されているということから分かるように,当初は,職業リハビリテーションが目的をしていました。
同法では,更生への努力として「すべて身体障害者は,自ら進んでその障害を克服し,すみやかに社会経済活動に参与することができるように努めなければならない」と規定しました。
一方,国の責務は明記していません。
国の責務を明記しなかったのは,GHQの批判をかわすためだと考えられています。
その代わり,国には「身体障害者更生援護施設」の設置が義務づけられました。これはGHQに一矢報いるためだと考えられます。
そんな駆け引きの中で誕生したのが,日本の障害者福祉の幕開けとなった「身体障害者福祉法」です。
身体障害者更生援護施設は,その後,社会福祉事業法で社会福祉法人ができたことで,多くの施設が出来上がっていきます。身体障害者更生援護施設は,2006(平成14)年改正で,身体障害者社会参加支援施設になっています。
重度化対策としては,昭和30年代に,重度身体障害者更生施設,重度身体障害者授産施設が創設されています。
政府は,職業リハビリテーションにこだわり,身体障害者福祉法では生活型施設の設置を認めてきませんでしたが,1972(昭和47)年にようやく身体障害者療護施設を創設しました。
<知的障害者>
知的障害者対策は,もともとは児童福祉法に精神薄弱児施設が規定されていました。
しかし,18歳になると施設を出なければならず,その後の対応策がありませんでした。
その当時の入所施設は,生活保護法に規定される救護施設など限られた入所施設しかありませんでした。
そこで,1960(昭和35)年の精神薄弱者福祉法(現・知的障害者福祉法)で,18歳以上の知的障害者を対象とした入所施設である精神薄弱者援護施設を創設しました。
<精神障害者>
精神障害者は,人権との闘いの歴史でもあります。
精神病者監護法(1900・明治33年)は,私宅監護(いわゆる座敷牢)を認めたものです。
戦後,同法を廃止して,精神衛生法(1950・昭和25年)の成立で私宅監護が禁止されます。この時に措置入院が規定されています。
社会福祉士の国家試験には出題されたことはありませんが,1964・昭和39年にライシャワー駐日大使を統合失調症患者が刺傷させる「ライシャワー事件」が起きました。
1963・昭和38年のいわゆるケネディ白書に影響を受け,社会の動きは精神障害者の脱施設化に向かっていましたが,この事件で精神障害者の野放しを問題にする世論が高まります。
そこで精神衛生法が改正され,自傷他害の恐れのある者に対する緊急措置入院制度が創設されました。隔離政策です。
また通院医療費公費負担制度も創設されています。
この制度は,現在は,障害者総合支援法の自立支援医療の精神通院医療となっています。
医療法の改正で,一般病院から精神科病院(この時代は精神病院)に診療科を変える病院が増え,精神障害者の社会的入院の時代が始まります。
これも社会福祉士の国試には出たことがありませんが,1970年代には診察もせずMSWの判断で入院させる「Y問題」が発生します。
1984・昭和59年に起きた事件は,看護職員が入院患者を死亡させるという「宇都宮病院事件」です。
この事件をきっかけに1987・昭和62年に,精神衛生法を改正して精神保健法になり,任意入院が規定されます。
そしてようやく1995・平成7年に精神保健法を改正して,現行法である精神保健福祉法になりました。この時に精神障害者保健福祉手帳ができました。
身体障害者,知的障害者,精神障害者は,このように別々の制度として発展してきたことが分かるでしょう。
精神障害者については,社会福祉士では出題されませんが,精神障害者では,もっともっと悲しい出来事やそれに挑んでいった人が出題されています。
3障害のサービスが一元化されたのは,2005・平成17年に成立し,2006・平成18年に施行された障害者自立支援法です。
障害者自立支援法は,2012・平成24年に改正されて,障害者総合支援法となっています。
障害者自立支援法は,3障害のサービスを一元化したこと,日中活動と生活の場を分けたこと,などが特徴です。
ここからは,チームfukufuku21の私見ですが,この法律を作った人たちは,大きな夢を持って作ったのではないかと思います。障害者に対する世間の目は,ともすると「社会的に必要ではないもの」といったスティグマに向きがちです。
障害者,特に精神障害者の歴史は人権との戦いであったことが分かるでしょう。
障害者自立支援法は,スティグマをいかになくすかに力を注いだイギリスのベヴァリッジに似たものを感じます。
なぜそう思うかといえば,障害者自立支援法は,社会福祉制度には極めて珍しい「応益負担」を採用したからです。
社会福祉制度では多くの場合,「応能負担」が採用されます。
応益負担は,利用したサービス量に応じて,利用料を負担する方法です。
多くの場合には,社会保険制度で採用されています。
1962年の社会保障制度審議会による勧告では,
一般所得者層に対する施策は社会保険制度が対応
低所得者層に対する施策は社会福祉制度が対応
貧困者層は生活保護制度が対応
と述べています。
つまり,障害者自立支援法は社会福祉制度ではあるもののスティグマをなくすために社会保険制度の要素を取り入れたのではないかと思います。
そう考えると,応益負担をやめてしまった障害者総合支援法はもったいないようにも思います。
応益負担は,サービスを受けた量に対して利用料を支払うので,スティグマを感じることもなく,サービスは権利として受けることができます。サービス提供者もサービス提供の対価として利用料をいただくので,「してあげる」という気持ちにもなりづらいと言えます。
「応益負担」が批判されたのは,負担が大きいというものです。障害者の多くは,障害基礎年金が唯一の収入です。
障害基礎年金は,老齢基礎年金と違い定額制です。1級の場合の年額は老齢基礎年金の満額の1.25倍なので,2018年4月時点では,97万4,125円です。2級の場合は,満額と同じ779,300円です。これに子がいた場合は子の加算があります。配偶者の加算はありません。
応益負担が厳しいのであれば,障害基礎年金を引き上げるという方法もできたはずです。
応益負担であっても応能負担であっても,運営にかかる費用は一緒のはずですから,障害基礎年金を引き上げた分,障害福祉サービス等報酬は引き下げられます。
そのため障害基礎年金を引き上げても全体の費用は上がらないのではないでしょうか。
<今日のまとめ>
日本の障害者福祉は,身体障害者を対象とする職業リハビリテーションから始まりました。
それから重度障害者を対象として,現在では3障害を一元化した障害者総合福祉法による障害福祉サービスが提供されています。
この間には,障害者権利条約の批准に向けた制度の整備を行ってきています。
これからしばらくは,障害者福祉の発展過程を追いかけていきたいと思います。
※今日の問題は,今日はお休みします。