2018年5月12日土曜日

第31回国試に合格する勉強法~福祉の歴史編~その7

歴史シリーズを続けます。

今回は,いよいよ日本編です。

外国に比べると出題が細かくなっています。

しかし,ポイントを押さえれば,何とかなります。

ポイントとは,大きな流れをつかむことです。

さて,それでは今日の問題です。

第21回・問題1 我が国の社会福祉の歴史に関する次の記述のうち,正しいものを一つ選びなさい。

1 明治維新の直後に制定された恤救規則は,イギリスの救貧法をモデルに制定され,救恤場を設置し,院内救済を原則とした。
2 日清戦争の前後には,労働者の貧困や都市下層社会の問題が発生し,政府は,救貧行政の強化を図るために,窮民救助法を制定した。
3 日露戦争後には,政府は,地方行政による救貧行政の進展を図るために,感化救済事業講習会を開催し,防貧だけでなく救貧の必要性を強調した。
4 第一次世界大戦末期には,物価高騰による生活苦を背景に勃発した米騒動が,社会連帯責任を強調した社会事業行政を発展させる一因となった。
5 日中戦争が全面化した時期には,政府は,軍人の保護を目的として,戦時厚生事業を行い,傷病軍人対策として廃兵院法を制定した。

歴史が苦手人は,まったく手が出ないように思うでしょう。

しかし,手がかりはあります。

それでは,解説です。

1 明治維新の直後に制定された恤救規則は,イギリスの救貧法をモデルに制定され,救恤場を設置し,院内救済を原則とした。

日本の救民保護の法制度は4つです。

恤救規則
救護法
旧・生活保護法
現・生活保護法

救護法では,孤児院(現・児童養護施設),養老院(現・養護老人ホーム)などが規定されていますが,恤救規則から現・生活保護法まで一貫して,原則は居宅保護です。

よって間違いです。

恤救規則は,米代の現金給付が救済方法です。一度だけ米の現物給付という出題がされましたが,江戸時代なら分かりますが,明治時代に米の現物給付はないだろうと思えるのではないでしょうか。


2 日清戦争の前後には,労働者の貧困や都市下層社会の問題が発生し,政府は,救貧行政の強化を図るために,窮民救助法を制定した。

第1回帝国議会は,1890年に開催されました。その政府による法案第1号が,窮民救助法案です。

先に述べたように,恤救規則は,救護法まで存続します。なぜならこの間に出された法案はすべて廃案になっているからです。よって間違いです。

廃案になった理由は,基本は民間の慈善事業であったからです。

イギリスでさえ,ブースの貧困調査が行われている時代,ナショナルミニマム(国家による最低限度の生活保障)という考えがウェッブ夫妻によって提唱されるのはもう少し先の時代です。こんな時代において,窮民救助法案が第1号だったというのは,政府のやる気をみるような気がします。

この当時の選挙は,一定以上の税金を納めた人だけができる制限選挙でした。国会議員は,すべての国民を代表したものではありません。救貧の必要性があってもその人たちには届かなかったことで廃案になったのかもしれませんね。


3 日露戦争後には,政府は,地方行政による救貧行政の進展を図るために,感化救済事業講習会を開催し,防貧だけでなく救貧の必要性を強調した。

日清戦争は,中国から多額の賠償金を受け取ることができて,好景気になります。その一方で貧富の差が広がっいきます。

日露戦争では,日本は大国ロシアを破ったものの賠償金は受け取ることができず,不景気になります。

感化救済事業は,天皇の影響力を使って,国民(この当時の呼び名は臣民)を良民にするというものです。

感化救済事業は,国が道府県に対して,どのように感化救済事業を行うかといった講習会です。感化救済事業が活発に行われたのは,明治の末期から大正年間にかけてです。昭和に入るともう既に感化はなされて必要なくなっていっということでしょう。

さて,この当時の基本は,慈善事業です。イギリスの歴史を見ても,救貧法,そして慈善組織協会(COS)にしても,窮民の救済,つまり救済が中心です。救済に陥らないようにする防貧の考え方が出てくるのは,の後からです。社会保険は防貧のための制度です。

さて,問題に戻ります。

感化救済事業講習会を開催し,防貧だけでなく救貧の必要性を強調した。

さらっと読むと正解っぽいですが,救貧ならこれまでと変わりません。国はお金に困っていた時代。救貧に割けるお金はありません。防貧が重要だったのです。よって間違いです。

今の時代も「福祉から就労へ」です。基本的には就労に結び付けたいのです。税金を払ってもらうことが国にとっては最も良いのですが,そこまで至らなくても,自活できるくらいにはしたいのがいつの時代の本音なのかもしれません。


4 第一次世界大戦末期には,物価高騰による生活苦を背景に勃発した米騒動が,社会連帯責任を強調した社会事業行政を発展させる一因となった。

今日の問題を選択肢した理由は,実はこの選択肢にあります。
1918年,富山の主婦から始まった米騒動は全国に広がりました。鎮圧するのに国は苦労して軍隊まで繰り出します。
米騒動が日本の福祉行政の転換期となっていきます。この翌年に内務省救護課が社会課になり,その後局に格上げされていきます。よって正解です。

2018年は,米騒動から100年です。どこかの科目に必ず出題されるはずです。しっかり覚えておきたいです。

因みに内務省救護課は,1917年に軍事救護法の事務を行うために設置したものです。


5 日中戦争が全面化した時期には,政府は,軍人の保護を目的として,戦時厚生事業を行い,傷病軍人対策として廃兵院法を制定した。

これももっともらしい問題に見えるはずです。しかし軍人の保護を充実させたのは,明治から大正にかけての時期です。

なぜなら,この時代の軍人は職業軍人だからです。

傷病軍人対策の廃兵院法は1906年。
傷病軍人や遺族対策の軍事救護法は1917年。

戦時厚生事業は日中戦争の時期だということは正しいですが,その時期に作られたのは,母子保護法,国民健康保険法です。よって間違いです。

厚生というのは,体を丈夫にするという意味合いです。1938年には内務省から独立して厚生省ができます。

国民の体を健康にする意味は,国民を屈強な兵士に育て上げ,戦地に送り込むためです。
母子保護法は,戦争が始まる以前から女性団体から法の整備の要請が出ていましたが,法が成立したのは戦争がらみという悲しい結果となってしまいました。

日中戦争は,民間人を徴兵していくために,普段から丈夫な体にすることが必要だったのです。


〈今日のまとめ〉
・いつの時代も保護の基本は居宅保護。

・いつの時代も国がお金に困ると福祉から就労へ

・軍人保護に関する主な法は日中戦争の時期に成立したものではない。

・戦時厚生事業は,屈強な兵士にするため。

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