第30回国試では,多くの人が高い得点になったために合格基準点が過去最高になりました。
得点できる問題になった要素はいくつかありますが,そのうち,大きな影響を与えたのは,
第30回国試には今までのような
国試は
少しずつ同じで少しずつ違う
という出題が少なかったことです。
そのため,勉強をしっかり積み重ねてきた人は,得点しやすくなりました。
だからといって,勉強が足りない人まで点数が取れる試験ではありません。
もう一つの要素である
国試の文字数が年々少なくなっている
言い回しの不自然さで,消去することができなくなっているからです。
第31回国試がどのスタイルをとるのかは分かりません。しかし歴史問題は,勉強した人と勉強していない人の差が大きくなることが多いだけに,取れるものなら取っておきたいです。
さて,今日の問題です。
第28回・問題34 セツルメントに関する次の記述のうち,正しいものを1つ選びなさい。
1 日本におけるセツルメント運動は,アダムス(Adams,A.)が岡山博愛会を設立したことに始まるとされている。
2 中央慈善協会は,全国の主要な都市で展開されていたセツルメント運動の連絡・調整を図ることを目的として設立された。
3 留岡幸助は,大崎無産者診療所を開設しセツルメント運動に取り組んだ。
4 大原孫三郎は,セツルメントの拠点としてキングスレー・ホールを開設した。
5 賀川豊彦は,神戸の貧困地域でのセツルメントの実践を『貧乏物語』にまとめた。
この中で,初めて出題されているものは,A.アダムス,大崎無産者診療所と大原孫三郎の2つです。
それでは解説です。
1 日本におけるセツルメント運動は,アダムス(Adams,A.)が岡山博愛会を設立したことに始まるとされている。
これが正解です。宣教師のアダムス(アリス・ペティ・アリス)は,1891年に岡山博愛会を設立し,宣教事業としてセツルメントを実施しました。
A.アダムスは,参考書にも書かれているので,この時初めて出題されたというのはびっくりでしょう。
同じアダムスでも,アメリカでハルハウスを設立したJ.アダムスは頻出であるのとは取扱いに大きな違いがあります。
2 中央慈善協会は,全国の主要な都市で展開されていたセツルメント運動の連絡・調整を図ることを目的として設立された。
中央慈善協会は,前回も取り上げましたが,現在の全国社会福祉協議会の源流であり,感化救済事業講習会の第1回講習会の最終日に設立されています。感化救済事業講習会とは,慈善事業に従事する者を教育するものです。
中央慈善協会の活動の中には,セツルメント運動にとどまらず,慈善事業を推進するための全国組織です。よって間違いです。初代会長は,日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一が就任し,監事の中には,家庭学校の留岡幸助が名前を連ねています。
3 留岡幸助は,大崎無産者診療所を開設しセツルメント運動に取り組んだ。
留岡幸助は,旧カリ時代から数えると16回も出題されている超頻出です。
現在の児童自立支援施設にあたる感化院の家庭学校を東京巣鴨に設立した人です。よって間違いです。
大崎無産者診療所は医師の大栗清実が開設していますが,覚えることはないです。
4 大原孫三郎は,セツルメントの拠点としてキングスレー・ホールを開設した。
キングスレー・ホール(キングスレー館)は,片山潜(かたやま・せん)が1897年,東京の神田三崎町に設立したものです。よって間違いです。
片山潜は,A.アダムスと同様に日本のセツルメントの源流とされていますが,A.アダムスと違って超頻出で,7回も出題されています。キングスレー館は「基督教社会事業の本営」として事業を始めましたが,片山の関心は宗教から労働問題に移ったことから慈善事業が社会事業に変化する先鞭をつけたことが評価されているのはないかと思います。
大原孫三郎は,倉敷紡績の社長です。岡山孤児院を設立した石井十次に影響を受け,同院のよきスポンサーとなりました。
大原は,経営者として労働問題に興味をもち,国内外の社会問題を調査するために大原社会問題研究所を設立しました。同研究所は,現在は法政大学の中に受け継がれています。
5 賀川豊彦は,神戸の貧困地域でのセツルメントの実践を『貧乏物語』にまとめた。
賀川豊彦は,2日連続での登場です。著書は『死線を超えて』でしたね。よって間違いです。
貧乏物語は河上肇の著書です。